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Posted by みやchan運営事務局 at

2015年11月16日

線路は続く?

「線路は続くよ、どこまでも」

子どもの頃、学校の音楽の時間で習ったこの曲を、無邪気に歌っていた。
全国に鉄道網が張り巡らされていて、近距離・長距離の旅の主役は国鉄だった。旅客のみならず、荷物の発送も郵便局か駅からが一般的だった。
幹線や亜幹線、ローカル線などが全国に咲き誇っており、さらにそこから脇へ入る私鉄各線や、バス路線などがあった。
まだまだ飛行機の旅は高嶺の花だった。

しかし内情としては、新幹線建設の影響で国鉄が赤字転落となり、収益があっても借り入れている金利を支払うだけで精一杯という、雪だるまの借金地獄へ陥っていく。そして赤字になると予測されるローカル線を建設しつつも既存の赤字ローカル線は廃止となるなどの矛盾も起き、やがてその新線も建設が止まって、糖尿病患者の手足が壊疽していくように末端の路線が消えていく。長距離を走る特急も、このころから元気がなくなり、ブルートレインなども本数縮小、編成短縮になっていく。

現在の日南線終着駅、志布志駅もそんな歴史に翻弄された一つといえよう。かつては広大な駅構内を誇り、日南線・志布志線・大隈線という3つの路線が集まる鉄道の要衝だった。しかし2つの路線が消え、駅もわずかに移動して、その跡地にはショッピングセンターができた。その建物と駐車場の広さを眺めるにつけ、いかに当時の駅が広大だったのか、ひたすらため息が出る。しかも線路はここで行き止まりとなっていて、南へ下ることはできない。
「線路は続いていない」。

福岡県の筑豊地区は、網の目のように張り巡らされた運炭線が、廃坑となって使命を終えた後にそれぞれローカル線へと転落したが、今ではそれらも大部分が消え、往時の賑わいは忍ぶべくもない。北海道も同じく、最北の稚内へ向かう路線は大まかに言って3本存在したが、今では宗谷本線のみ、その残った一つも、JR北海道のさじ加減でどうなるかわからない。

国鉄(JR)の駅から分岐し、離れた町へ短い距離を走っていたローカル私鉄などはもっと悲惨だった。バスと競合するならまだしも、自転車にすら勝てないという悪条件下では維持する意味も必要もなく、しかも廃止するにあたって国鉄より認可がおりやすかったためにどんどん消えていった。最後の最後まで頑張っていた青森県の南部縦貫鉄道や十和田観光電鉄などは珍しい例で、やはり雪深い地域は鉄道が有利なのかと思う。弘南鉄道などは、よく持っていると感心する。
そして経済的と言われたバス路線ですら、自家用車に追われてしまっている。

JR九州では、最近、無人駅を拡大するなどの厳しいニュースが多かった。しかし宮崎地区にSUGOCAを導入するなど、地方路線を完全に無視するというわけではなさそうだ。暗いニュースと明るいニュース。一喜一憂するのはファンであるが故だとは思うが、やはり線路は続いて欲しい。それがファンのエゴなのかもしれないけれども。


  

Posted by かるみっこ at 20:15Comments(0)鉄道

2015年11月15日

ねこ戦争

前回の続きである。

ねこは単純な愛玩動物だと思われそうなのだが、ちょっと待ってほしい。そんな単純な生き物ではない。
実は、人類を制圧し、地球征服を目論む生命体なのだ。
その証拠の画像が、こちらである。
出展:島民15人とネコが100匹以上暮らす島「青島」で大量のネコと戯れてきました-GIGAZINEより

人間に対して巧みに擦り寄り、油断したところで増殖し、そして数の理論で人類を圧倒する-そのプロジェクトは、今現在、着々と進行しているのである。
ごく小さな島など、一部はすでに制圧済みの場所もあり、これがやがて本土に及ぶのも時間の問題だというのは、お分かりいただけるであろう。

そしてあなたの自宅にも、きっといるこの危険な生命体。

犬であれば、この姿勢は「降伏」であり、人間に対して服従の意味を表す。
しかしねこは、その犬の姿を真似て、人間を攻撃するためのカモフラージュとして利用する。この姿勢を「降伏」だと勘違いし、ねこのお腹に手を出して、ひっかき傷という重傷を負わされた例は、枚挙にいとまがない。
彼らは、そういった訓練を受けた、「戦士」なのだ。「軍人」いや「軍猫」といっても差し支えない。
その証拠に、体の模様そのものが迷彩色になっており、非常に発見しづらい。その上、彼らの目は暗い場所でも確実に目標を補足できるナイトビジョンを標準装備している。これが軍隊といわずして何であろうか。

実は人類も、彼らの存在に無抵抗だったわけではない。過去には、多くの交戦が行われたと推察される。
出展:大湯ストーンサークル 大湯環状列石 秋田県鹿角市-4travel.jp

全国に存在する過去の遺跡「ストーンサークル」は、ねこが囲いの中に入りたがる性質を利用して追い込み、ここで一網打尽にしたという伝承がある。
また、現在ねこの愛用グッズとして存在しているまたたびも、かつてはねこを陥れるための麻薬として開発された化学兵器という研究結果もある。
しかし、いずれも功を奏せず、結果としてねこは大繁殖し、人類との主役交代を虎視眈々と狙っているのが現状だ。虎視眈々、というネコ科の動物が狡獪に何かを狙っている、そんな慣用句があるのも、それらの戦争の記憶から生まれたものではないかと類推される。

いずれにしても、彼らは我々が油断したスキに、一気に襲ってくる可能性がある。
特にねこを飼っている家庭は、厳重な注意が必要だ。
家庭で飼う場合は、避妊手術かあるいは去勢をした方がベターであろう。
諸君の健闘を祈る!
  

Posted by かるみっこ at 23:48Comments(2)ねこネタ

2015年11月15日

編成美

"編成美"という言葉がある。主に鉄道用語として用いられる。
鉄道車両は、種別や動力手段によって雑多な種類があるが、すくなくとも同じ型式であれば、外観のデザインや、車体の高さなどは同じである。
それが、十数両の長さになると、大蛇のように長い連続体となり、存在感を増す。
直線で眺めても美しいが、カーブなど特殊な環境であれば、その連続したスタイルが更に多様な表情を表し、なおのこと美しく感じる。
都心部における通勤電車や、新幹線などでは、この"編成美"がしっかりと守られているものの、地方においては、残念ながらすでに過去のものとなってしまっているようだ。
九州で恐らく最後にそれを感じたのは、787系「つばめ」ではなかろうかと思う。885系や883系でもそれなりに長い編成なので、同じものを感じるはずなのだが、787系に比べてインパクトが弱い。恐らく、同型式のもつ、濃いグレーの塗装がその存在感を一層高めているのであろう。
しかし787系も九州新幹線全通とともに主役の座を追われ、昔日の面影が薄い。

国鉄時代はどうだったか。
かつて「ミニ特急」と言われその名をとどろかせた、博多-佐世保間の「みどり」も、それ単体では4両編成だった。当時は驚きの短さだったのに、現代の地方であれば違和感のない存在だ。しかしこの「みどり」、博多-肥前山口間は「かもめ」(8両編成)と併結していたから、堂々12両の特急電車であった。
その後、「かもめ」と「みどり」は、博多-佐賀(付近)の頻発運転、いわゆるフリークェントシー重視のダイヤ実現のために分離されたり、再び併結されたり、「ハウステンボス」が間に挟まるなど、紆余曲折を経て現在に至るのはご存知の通りだ。

なお、「かもめ」には、一時期、編成美を崩す車両が混じることもあった。

写真をご覧いただくと、先頭車両だけがいくぶん車体の高さが低いのがお分かりかと思う。どことなくこの間抜けな、崩された"編成美"は、上越線特急「とき」の廃止で余った181系先頭車を九州に異動させるという強引さで誕生したものだった。JR分社時代の今では考えられない、おおらかな転属劇が、このころはよく行われていた。

編成美といえば思い出すのは、当然のことながらブルートレインである。

毎日、東海道から山陽路を、青い車両を連ねた列車が、何本も何本も走っていく。
しかし、ついに需要減には耐えられず、全廃されてしまったのは記憶に新しい。

と、ここで、果たして将来的に、新幹線や通勤電車以外で、こういった"編成美"を眺めることができるのか、という疑問に当たってしまった。
出発駅から目的駅まで、同一の車両を、十数両もつないで走る必要性があるのか、ということだ。
残念ながら、ポジティブな意見は思い浮かばない。
もし、今からそう遠くない将来、化石燃料が枯渇して、自動車は燃料切れで動けず、飛行機も空を飛べないとしたら、必然的に電気でも動ける鉄道が脚光を浴びるのは間違いないだろう。
そうなると、長距離を移動する客が再び鉄道へ回帰し、"編成美"を再現することになるのではないか。
いや、それはつまり今の新幹線と同じだ。
もう少し時代が進み、電気自動車&自動運転が現実になれば、高速道路上では同じ目的地へ行くクルマが、お互いに連結されて走るに違いない。その方が事故も減るし渋滞も少なくなる。

Back to the Future2では、2015年にクルマが空を飛ぶと言ってたが実現していない。
それほど将来を予測するのは難しい。

ちなみに、なぜか、新幹線に対して、私は編成美を感じることが少ない。
なぜだろうか、どうしてだろうかといろいろと考えてみたいのだが、たぶん、これではないだろうかという結論を見出した。
新幹線は、カーブが少ないのだ。
だから、車体をうねうねとさせる場面がない。
これが編成美を遠ざけている原因かもしれない、と、半分眠りかけた頭で考えております。


  

Posted by かるみっこ at 00:34Comments(0)日記鉄道

2015年11月14日

人類最大の敵・ねこ

結論から言うと、「ねこ」という野生動物は、人類にとって非常に危険な存在である。

一刻も早く、この野生動物を人間社会から切り離さないといけない。
よく、地方発のニュースで、熊が人間を襲って死傷させたとか、あるいは鹿や猪が田畑を荒らす、猿が住宅街に現れて人間を引っ掻く等の被害が報道されるが、ねこはそれに匹敵するか、あるいはそれ以上の被害を人間に及ぼす。だから、速やかに隔離しなければならないのだ。

以下にその理由を示す。

最も顕著なのは、「ネコアレルギー攻撃」だ。
ネコアレルギー持ち人は、ねこが近くにいるだけで、くしゃみや鼻水が止まらなくなり、生命の危機に瀕する。これほど危険なアレルゲンは、世の中でも、小麦、そば、卵、乳製品、落花生、えび、かに、あわび、いか、いくら、オレンジ、キウイ、牛肉、くるみ、さけ、さば、大豆、鶏肉、バナナ、豚肉、まつたけ、もも、やまいも、りんご、ゼラチン、カシューナッツ、ごま(注:参考・味の素(株)ほんだし・いりこだしのパッケージ背面に記載されているものを参照)と匹敵するものであり、一刻の猶予もない。
そんな危険なアレルゲンを持ちながら、その人間を惹きつけて止まない愛らしい姿から、ついついアレルギーを忘れて触ってしまう。アゴの下をコチョコチョとしてやりたくなる。それも実は、彼らの謀略なのだ。そして人間は、それが謀略だとわかっていても、ついついコチョコチョしてしまうのだ。

次なる彼らの武器は、人間の布団に入る「添い寝攻撃」だ。
これはネコアレルギー攻撃と同様、無慈悲で容赦ない。健常者であろうが四十肩持ちであろうが寝違えた人であろうが、ともかく寒い季節には人間の寝ている布団に入り込んで、「添い寝」という攻撃を行う。布団の中にねこが侵入すると、人間はこれが周到に準備された「添い寝攻撃」だとわかっていても、なるべくねこを最優先して体をゆがめてしまい、ねこが出ていかないよう、最大限努力をする。その結果、持病を悪化させてしまう。
翌朝、寝覚めが非常に悪く、体のあちこちが筋肉痛だと感じていたら、布団にねこが入っていたということがよくある。これこそまさしく、ねこによる「特攻」といってもさしつかえない。

そして、それらを見事クリアできても、最終兵器「すりすりぴょんこ攻撃」には、人類は成す術がない。
こんなに憎たらしく、平気な顔をして人間に攻撃するねこではあるが、腹が減ってしまうと、人間の足に「すりすり」とすり寄ってくる。それでも無視していると、「ぴょんこ」と脛付近に頭部を擦り付けてくる。
エサが登場するまで、これが間断なく続き、人類を疲弊させてしまう。
仕方なく、ようやくの思いでエサを取り出し、彼らに与えてやらない限り、人類に平穏な時間はやって来ない。しかも、このエサのおかげで、一ヶ月に最低でも購入費用が500円もかかってしまうのだ! 一ヶ月に500円といえば大金であり、「うまい棒」であれば、なんと約50本も買えてしまうのだ。

そして、満腹になったら、さきほどの「すりすりぴょんこ攻撃」など、まるで存在しなかったかのごとく去っていく。せっかく、あれほどの苦労と、大枚はたいて購入したエサなど全く歯牙にもかけず、自分のお気に入りの場所へ行き、昼寝を決め込むのだ。

金銭面だけでなく、精神面でも苦境に追いやる、恐るべし「ねこ攻撃」……。まさしく、この世に神は存在しない。

最後に、どうして人間はこうも簡単に、「ねこ攻撃」にやられるのかを考察したい。

そもそも、戦争とは過去の"戦訓"を参考とし、それを訓練に活かすことによって、勝利を勝ち得たといっても過言ではない。
そんな背景はわかっていながらも、人間は常に、ねこに敗北し続けるのだ。
なぜか。

理由は、「ねこがかわいいから」。

彼らに戦いを挑むなど、無意味なものである。

  

Posted by かるみっこ at 00:51Comments(0)ネタねこ

2015年11月13日

駅について

今春、JR九州が社内の駅を大幅に無人化するというニュースが流れ、少なからず各方面に衝撃を及ぼした。

かつての"駅"とは、町のシンボル的存在であり、人や物が集まってまた散っていく場所だったのだ。そのため、歴史のある路線であるほど、そこに存在する駅はホームが長く、立派な駅舎を持つものが多い。たとえ集落から離れていても、そうなっている。

■肥薩線・白石駅

個人での移動手段が鉄道しかなく、さもなくば馬車や牛車、あるいは徒歩くらいしか選択肢がなかった時代では、駅は主役になる、いやならざるを得ない存在だった。
ところが時代が下るにつれ、より小回りの効くバスが現れると、様相が変わってくる。
町役場や病院、デパートなど、より便利なところへ入り込める交通機関が現れると、鉄道の重要性が低くなる。駅も必要最低限の機能さえ持たせればよい、ということになり、駅構内が小さくなっていき、駅舎もこぢんまりしたものとなる。また、高度経済成長に合わせ、ローカル線がどんどん伸びていくと、もともと需要の少ないそこには大きな駅をつくる必要性もなく、シンプルな駅が増えていく。それでも、ほとんどの駅には駅員がいて、きっぷの販売や信号機などの操作を行っていた。

■日南線・日向大束駅

さらに各家庭に自動車が行き渡り、いよいよ、地方にとっては鉄道が交通機関の主役から引きずり降ろされる。
利用客が少ないならば、きっぷを販売したり回収する仕事も、列車内の車掌が担えば良いと判断され、旅客担当の駅員がいなくなる。そして自動化によって、遠隔操作で信号などが切り替えられるようになると、運転関係の駅員も不要となり、大部分の駅から駅員が姿を消した。

■日南線・福島高松駅

駅舎はあるかなきかに等しく、駅舎というよりはむしろ「待合室」であって、手入れも少なく荒廃していく傾向にある。

……実はこれ、主に前世紀の話であって、約100年の間に起こったできごとを簡潔にまとめたものである。
もとより地方中心の見方であって、主要都市のターミナル駅には発展を続けているものや、「エキナカ」などの新しいジャンルを築いたものなども存在するが、それは全国でもきわめて「まれ」な例であろう。ほとんどの駅は、縮小し、無人化し、場合によっては廃止されたりもした。

今回、JR九州の発表で衝撃的だったのは、それなりに利用者が存在する駅でも、無人化を行ったことである。
客数の少ない駅では、車掌やワンマンでは運転士がなんとか対応できていたが、福岡の香椎線などそれなりに通勤・通学で使われている駅で、本当に無人化できるものだろうか。と疑問に思うのだが、実はこれらの駅のほとんどが、街の中心部へ向かう客であったり、それらの客がICカード・SUGOCAを使うので、特に問題はない、ということなのだそうだ。

そうなってくると、もはや駅はバス停と同じ存在である。
私が最も危惧するのは、そう遠くない将来、無人化が進んだ駅の駅舎が老朽化などの理由でどんどん取り壊され、ホームとごく簡素な雨よけ程度しか設置されないのではないか、ということ。もちろんそれで「乗降のための」駅としては十分な役割を果たすのだが、どうにも物足りない。
「駅めぐり」をしている人はそれなりにいるが、「バス停めぐり」を趣味にしているという人の話は聞かない。
その両者にある距離は、駅舎であったり設備であったり、あるいは歴史なのだと思うのだが。
ふらりと途中下車して、駅を見、町を歩いてみるということもなくなりそうではある。

ただ、「どれが正解なのか」という問いに対する答えを、残念ながら私は持っていない。
一部ではクルマ社会と結託し、「道の駅」を「駅」に併設することを実現した所もあるが、これでも賛否意見は分かれる。
どうも、私を含めて、鉄道を愛する人というのは、自分の金を出し惜しむ割には、意見の出し惜しみをしない傾向はあるので、このあたりでやめておく。

  

Posted by かるみっこ at 08:51Comments(2)鉄道