
2015年02月04日
ED73比較
今回も宮崎とはほとんど関係のない話でございます。
ワタシが鉄道ファンになった頃、まだ九州にはED72とかED73、そしてその後北陸からEF70がやってくる等、電気機関車は(今よりも)バラエティーに富んでおりました。
しかしながら現在、ED72は試作車のみ保存、ED73は現存せずとなっていて、写真か模型の世界でしか、その姿をしのぶことはできません。唯一このグループで(静態保存として)残っているED72試作車は、その後の量産型およびED73とはかなり違う風貌になっており、それしか知らない人にとっては「コレジャナイ」感が全開です。
現役だった頃、どこかでNゲージの模型が出ないであろうかと思っていたのですが、かなりマイナーな部類の車両なのでそれを期待することもできず、頭の中で設計図を描いて頭の中で組み立てる、いわゆる「妄想」でしか模型化できなかったわけです。
ところが、時代が下るといろんな事が起こるというべきか、まずED72がマイクロエースから模型化されます。
ワタシは黄色いナンバーのED73よりも、こちらのED72の方が(風格としても)好きで、唯一在庫を持っていた某ネット模型店で購入しました。
そして後に、同じくマイクロエースからED73が模型化されるという話になり、こちらは予約で購入しました。
そして登場したED73は、台車のステップ位置が間違っていたということで一旦回収になったりなどのトラブルもありましたが、まぁ、レア車両の模型化ということで満足していたもんです。
で、それからしばらくすると、今度は、あの大手のKATOからED73が模型化されるとの由。
どちらかというと有名どころしか作らないKATOなのに、なぜ? と思いつつも、最近のJRの新製車両よりも国鉄型の方がウケがいいからかな、でもED73だと確実に九州だけしか受注がなさそうだななどと思いつつ、かなり悩みながらも予約。
悩んだ理由は単純で、既にマイクロエース製を所有しているから、同じものを持っていても仕方がないという思いだったのですが。
しかしせっかく模型化してくれるなら、やはり買うべきでしょうという結論に。
別パーツ化された手すりの取り付けなどにかなり難渋しながらも、いざ出来上がってみると、さすがはKATOというべきか。

左マイクロエース、右KATOと並べてみると、確かに往年の姿を知っている者からすると、KATOの方が的確であって、KATOを見てしまうと、マイクロエースは「えーっと、君だれ?」な状態になります。
前面比較。

ただ、……KATOで唯一残念なのは、ワイパーの部分ですかね。ここだけ、なんとなく違和感があります。はい。
ワタシが鉄道ファンになった頃、まだ九州にはED72とかED73、そしてその後北陸からEF70がやってくる等、電気機関車は(今よりも)バラエティーに富んでおりました。
しかしながら現在、ED72は試作車のみ保存、ED73は現存せずとなっていて、写真か模型の世界でしか、その姿をしのぶことはできません。唯一このグループで(静態保存として)残っているED72試作車は、その後の量産型およびED73とはかなり違う風貌になっており、それしか知らない人にとっては「コレジャナイ」感が全開です。
現役だった頃、どこかでNゲージの模型が出ないであろうかと思っていたのですが、かなりマイナーな部類の車両なのでそれを期待することもできず、頭の中で設計図を描いて頭の中で組み立てる、いわゆる「妄想」でしか模型化できなかったわけです。
ところが、時代が下るといろんな事が起こるというべきか、まずED72がマイクロエースから模型化されます。
ワタシは黄色いナンバーのED73よりも、こちらのED72の方が(風格としても)好きで、唯一在庫を持っていた某ネット模型店で購入しました。
そして後に、同じくマイクロエースからED73が模型化されるという話になり、こちらは予約で購入しました。
そして登場したED73は、台車のステップ位置が間違っていたということで一旦回収になったりなどのトラブルもありましたが、まぁ、レア車両の模型化ということで満足していたもんです。
で、それからしばらくすると、今度は、あの大手のKATOからED73が模型化されるとの由。
どちらかというと有名どころしか作らないKATOなのに、なぜ? と思いつつも、最近のJRの新製車両よりも国鉄型の方がウケがいいからかな、でもED73だと確実に九州だけしか受注がなさそうだななどと思いつつ、かなり悩みながらも予約。
悩んだ理由は単純で、既にマイクロエース製を所有しているから、同じものを持っていても仕方がないという思いだったのですが。
しかしせっかく模型化してくれるなら、やはり買うべきでしょうという結論に。
別パーツ化された手すりの取り付けなどにかなり難渋しながらも、いざ出来上がってみると、さすがはKATOというべきか。

左マイクロエース、右KATOと並べてみると、確かに往年の姿を知っている者からすると、KATOの方が的確であって、KATOを見てしまうと、マイクロエースは「えーっと、君だれ?」な状態になります。
前面比較。

ただ、……KATOで唯一残念なのは、ワイパーの部分ですかね。ここだけ、なんとなく違和感があります。はい。
2015年01月28日
日豊本線宮崎以南
今から35年ほど前、つまり相当昔の話になるとは思いますが、ワタシの住んでいる近辺(日向沓掛)を走る日豊本線は、まだ電化していませんでした。
今のように旅客輸送量も少なく、貨物列車もほとんどない状況だと、電化する必要性も低いかもしれませんが、当時はまだ高度成長期の出口が見えかけていた頃で、需要に対する輸送力が逼迫しており、かつ、同一線区で電化・非電化が分かれていると、何かと面倒な事も多かったため、幹線系は全て電化するというのが国鉄の方針でした。
旧来、電車・電気機関車がない路線は、当然ながら蒸気機関車(SL)が走っていたのですが、いつまでも煙モクモクでは望ましいものではないため、無煙化という名のもとに、ディーゼル化が進められます。
その中で登場したものの一つとして、DF50という電気式ディーゼル機関車があります。
今で言えば、「ハイブリッド車」ともいえるシステムを持っており、ディーゼルエンジンで発電し、モーターを回すという「電気式」。
最先端技術のようにも思えますが、製造された昭和30年台は、特にエンジンの技術に関しては欧米にかなり劣っており、本形式のエンジンもドイツからの技術提携で開発したもので、しかしながら完成したそれは、期待された性能を発揮することができませんでした。
その結果、「エンジン+燃料+モーターの重量およびメンテナンス」を考えるならば、むしろ「エンジン+変速機」でやって行った方がよい、という結論になり、結果的にその後DD51という「液体式」のシステムを開発し、技術を確立していくことになります。ちなみに液体式は、今のクルマで言えばトルクコンバータ搭載のオートマチック車、みたいなものですね。
それなりの出力が確保できるDD51の開発成功により、日本全国の非電化路線にその方式の機関車が走り回るようになるのですが、なぜか日豊本線の南端だけは、DF50が最後までがんばっておりました。
時代は下り、DF50は電化とともに過去へ去ったものの、30年以上経過して、再び同じ「電気式」の最新鋭機関車であるDF200 7000が「ななつ星」を牽いて同区間を走るさまは、めぐり合わせの不思議さを感じるものですね。
(※)補足:とりあえず、DD51成功後は「液体式」が主流になるも、近年になってインバーター技術によるモーターの高出力・高効率化、省メンテナンス性が決定打となり、いわゆる「電気式」に回帰していきます。また、ディーゼルカーにおいても、エンジンで発電、バッテリー搭載、モーター駆動による「ハイブリッド化」が進行しています。
35年以上前、うちの近辺では、恐らくこういう光景が見られたのでしょう。

(なおDF50は単機回送か何かだと思ってください笑)
そんな写真を撮って部屋へ戻ると、うちのねこらが編成を組んでいました。

ので、車両とともに記念撮影。
今のように旅客輸送量も少なく、貨物列車もほとんどない状況だと、電化する必要性も低いかもしれませんが、当時はまだ高度成長期の出口が見えかけていた頃で、需要に対する輸送力が逼迫しており、かつ、同一線区で電化・非電化が分かれていると、何かと面倒な事も多かったため、幹線系は全て電化するというのが国鉄の方針でした。
旧来、電車・電気機関車がない路線は、当然ながら蒸気機関車(SL)が走っていたのですが、いつまでも煙モクモクでは望ましいものではないため、無煙化という名のもとに、ディーゼル化が進められます。
その中で登場したものの一つとして、DF50という電気式ディーゼル機関車があります。
今で言えば、「ハイブリッド車」ともいえるシステムを持っており、ディーゼルエンジンで発電し、モーターを回すという「電気式」。
最先端技術のようにも思えますが、製造された昭和30年台は、特にエンジンの技術に関しては欧米にかなり劣っており、本形式のエンジンもドイツからの技術提携で開発したもので、しかしながら完成したそれは、期待された性能を発揮することができませんでした。
その結果、「エンジン+燃料+モーターの重量およびメンテナンス」を考えるならば、むしろ「エンジン+変速機」でやって行った方がよい、という結論になり、結果的にその後DD51という「液体式」のシステムを開発し、技術を確立していくことになります。ちなみに液体式は、今のクルマで言えばトルクコンバータ搭載のオートマチック車、みたいなものですね。
それなりの出力が確保できるDD51の開発成功により、日本全国の非電化路線にその方式の機関車が走り回るようになるのですが、なぜか日豊本線の南端だけは、DF50が最後までがんばっておりました。
時代は下り、DF50は電化とともに過去へ去ったものの、30年以上経過して、再び同じ「電気式」の最新鋭機関車であるDF200 7000が「ななつ星」を牽いて同区間を走るさまは、めぐり合わせの不思議さを感じるものですね。
(※)補足:とりあえず、DD51成功後は「液体式」が主流になるも、近年になってインバーター技術によるモーターの高出力・高効率化、省メンテナンス性が決定打となり、いわゆる「電気式」に回帰していきます。また、ディーゼルカーにおいても、エンジンで発電、バッテリー搭載、モーター駆動による「ハイブリッド化」が進行しています。
35年以上前、うちの近辺では、恐らくこういう光景が見られたのでしょう。

(なおDF50は単機回送か何かだと思ってください笑)
そんな写真を撮って部屋へ戻ると、うちのねこらが編成を組んでいました。

ので、車両とともに記念撮影。
2015年01月25日
硬券切符
前回は福岡の話だったので、今回は宮崎に関するものを。
実は手許に、宮崎の駅の硬券切符が2駅4枚あります。

高千穂駅は入場券と最短区間切符(天岩戸まで)。国鉄時代のものですね。入場券は券面が劣化していてシミが多数入っています。
あの小さな駅に、果たして入場券が必要だったかどうかは不明ですが、国鉄時代は駅員がいる駅では入場券を常備しておりました(ただし、一部駅では初乗運賃切符を入場券と代用している例も見たことがあります)。
ただし、これは実際に訪問して購入したわけではなく、当時流行ってた、郵送による購入です。いわく券面金額を現金書留か、あるいは金額相当の切手で送り、販売してもらう方法です。
現地に赴かないと切符は買えないと思っていたワタシにとって、この注文方法を知ったのは一種のカルチャーショックでした。今でいえば、amazonで何でも購入できる便利さを知ったのに匹敵するかもしれません(少し大げさですが)。
さて不思議なのは、この時期にそのような購入方法を採っていながら、なぜ、妻線の「妻駅」などの切符を買っていなかったのか、という事です。
むしろ駅名としては、妻駅の方が有名であって人気もあり、しかも昭和59年に廃止になるという話題性もあったのに、ワタシは買っていないのです。
この頃、やたらと硬券切符を買いに回っており、高千穂駅のわずか数日前の日付による「吉塚駅」のそれらもあることを考えると、さらに謎が深まります。自分の事なのに。
唯一考えられるのは、妻駅はかなり以前から、縁起駅名ということで有名になっており、メジャーどころがあまり好きではないワタシの性格から、あえてそこを避けていたのではないか……という事くらいですかね。
この性格はつい最近まで続き、かたくなにiPhoneを避けていたことからも分かりますが(笑)
そしてつぎ、
清武駅は、JR九州化後のものです。切符の紋様も、「こくてつ JNR」から「JR K」に変化していて、「国鉄線」から「九州会社線」、そして左上には四角で囲った「九」マークもあります。
これは、福岡に住んでいた頃、九州一周旅行を思い立ち、夜行「日南」で日豊本線周りで宮崎駅に行くつもりが寝坊したために日向沓掛に降り立ったあと、一度清武駅に降り、そこで切符と入場券を買ったものです。小さな時刻表をもらったのを覚えています。
なぜ日向沓掛で降りて、清武でさらに降りたのかは、まぁいろいろと事情はあるのですが、まさか、その20数年後にそこに住んでいるのは、本当に奇妙なめぐり合わせです。
切符を買っていると、そんな記憶もしっかりと覚えているもんですね。
実は手許に、宮崎の駅の硬券切符が2駅4枚あります。

高千穂駅は入場券と最短区間切符(天岩戸まで)。国鉄時代のものですね。入場券は券面が劣化していてシミが多数入っています。
あの小さな駅に、果たして入場券が必要だったかどうかは不明ですが、国鉄時代は駅員がいる駅では入場券を常備しておりました(ただし、一部駅では初乗運賃切符を入場券と代用している例も見たことがあります)。
ただし、これは実際に訪問して購入したわけではなく、当時流行ってた、郵送による購入です。いわく券面金額を現金書留か、あるいは金額相当の切手で送り、販売してもらう方法です。
現地に赴かないと切符は買えないと思っていたワタシにとって、この注文方法を知ったのは一種のカルチャーショックでした。今でいえば、amazonで何でも購入できる便利さを知ったのに匹敵するかもしれません(少し大げさですが)。
さて不思議なのは、この時期にそのような購入方法を採っていながら、なぜ、妻線の「妻駅」などの切符を買っていなかったのか、という事です。
むしろ駅名としては、妻駅の方が有名であって人気もあり、しかも昭和59年に廃止になるという話題性もあったのに、ワタシは買っていないのです。
この頃、やたらと硬券切符を買いに回っており、高千穂駅のわずか数日前の日付による「吉塚駅」のそれらもあることを考えると、さらに謎が深まります。自分の事なのに。
唯一考えられるのは、妻駅はかなり以前から、縁起駅名ということで有名になっており、メジャーどころがあまり好きではないワタシの性格から、あえてそこを避けていたのではないか……という事くらいですかね。
この性格はつい最近まで続き、かたくなにiPhoneを避けていたことからも分かりますが(笑)
そしてつぎ、
清武駅は、JR九州化後のものです。切符の紋様も、「こくてつ JNR」から「JR K」に変化していて、「国鉄線」から「九州会社線」、そして左上には四角で囲った「九」マークもあります。
これは、福岡に住んでいた頃、九州一周旅行を思い立ち、夜行「日南」で日豊本線周りで宮崎駅に行くつもりが寝坊したために日向沓掛に降り立ったあと、一度清武駅に降り、そこで切符と入場券を買ったものです。小さな時刻表をもらったのを覚えています。
なぜ日向沓掛で降りて、清武でさらに降りたのかは、まぁいろいろと事情はあるのですが、まさか、その20数年後にそこに住んでいるのは、本当に奇妙なめぐり合わせです。
切符を買っていると、そんな記憶もしっかりと覚えているもんですね。
2015年01月23日
旧・国鉄筑肥線
実はワタシは福岡の出身でして、最寄り駅は今はなき西新駅(国鉄筑肥線)でした。
歴史を紐解く必要もありませんが、簡単に解説すると。
かつて博多駅から西へ分岐し、福岡市の西南部を走り、現在の筑肥線の起点となっている姪浜まで走っていた旧筑肥線は、昭和58年の福岡市地下鉄1号線(現空港線)全通とともに、その使命を終え、廃止となりました。
「地下鉄との並行路線だから」というのが廃止理由ではあるのですが、直線距離で2km以上も離れている場所があるなど、(廃止理由が)沿線住民には納得のしづらい部分もあったようです。
しかしながら、「筑肥線の踏切交差部分が、慢性的な渋滞の原因になっている」と言われれば反論もできず、かといって全線高架あるいは地下化するほどの需要も当時はなく、結果的に目立った反対運動もなく、廃止となりました。
さて国鉄筑肥線は廃止後、徐々に道路となってゆき、「筑肥新道」なる名称も新たにつけられました。鳥飼駅(現城南区役所)~西新駅近辺は廃止前からあった道路と並行しているため、事情を知らない人にとっては延々と並行する道路があるという不思議な空間となっています。
で、旧西新駅の現在。
現在の保育園~スーパー~ファミマあたりが、旧西新駅の場所ではないかと記憶しております。
「自宅最寄り駅」といっても、単純にワタシの自宅から最も近いだけであって、実際に歩くと1時間はかかります。かくのごとく距離があり、かつこの駅を使っても行けるのは博多駅くらいですので、筑肥線を利用して出かけたという記憶はありません。
ただ、鉄道に興味を持ち始めていた頃だったので、列車や鉄道施設を眺めに行ったり、切符の購入などをしに行っていました。当時(昭和56年頃)はどの駅にも出札窓口があって、中には硬券切符がずらりと並び、駅員に目的地あるいは金額を伝えて購入していました。国鉄職員というと無愛想いやむしろ態度が悪い、などとマスコミでは叩かれ始めていましたが、別にそのような事もなかったと覚えています。
西新駅は比較的利用客が多かったのか、大人に加え小児運賃用の切符も販売していて、切符の券面の中心に赤字で「小」と書かれた姿が印象的でした。
(さきほど、「切符を買った」と書いていますが、改めて保有している切符を探しても「西新駅」のものは出てきませんでした。とりあえず参考として「小」マークつきの伊万里駅切符を出しておきます)

鉄道ファンになる条件としては、子供の頃、比較的多く列車に乗る生活を送っていたとか、生活圏において毎日のように列車と接していた、あるいはインパクトのある車両と出会った、などというのが挙げられますが、ワタシの場合どれも当てはまりません。
先述の通り、自宅と駅はかなり離れているので、車両の姿も何も見えません。せいぜい、冬などの空気が澄んでいる時期に、西新駅を出発するディーゼルカーのタイフォンの音が、毎朝の登校中に聞こえるかどうか、といった程度です。
それでも何故か鉄道趣味に陥り、「せっかくだから」と思って訪れた西新駅。
学校が終わってからなので、行くのはいつも夕方でした。
当時はまだ国道263号線だった「早良街道」との踏切から、西の方を眺めると、夕日の中に、西新駅の島式ホーム、ホームに建つ屋根、そしてその奥に植えられた木がシルエットで見え、さらにスプリングポイント標識が放つ幻想的な紫色の光、その近くにある腕木式信号機の赤い光が見えていました。
飽きずにずっと眺めていると、やがて踏切が鳴り、クリーム+ベージュというツートンカラー塗装のキハ35系がのっそりと現れ、やがて目の前を走り去っていきます。
そんな光景を、日が暮れるまでずっと眺めていました。
締めは、DE10牽引による客車列車で、それが西に走り去ると、いよいよ周囲は暗くなっていきます。
「いつかここに、東京で走っているような直流電車が現れて、颯爽と走り去るようになるんだ!」
ガキなワタシは根拠もなくそう思っていました。
直流電車(機関車)は、何も知らない九州の片田舎にいた少年にとっては、大都会を示す憧れの車両。
当時流行ってた、ブルートレインブームの影響が尾を引いていたのかもしれません。
いわく、
田舎=赤い車両(ED72とかED76、421系、キハ類)
都会=青い車両(EF65-1000、113系など)
そんな都会を夢見る田舎者のワタシだったわけです(笑)。
つまり、憧れだけで、筑肥線に「直流の青い電車が走るのだ」と信じていたのでした。
小学生だから、仕方ないですね。
ところが、(実はすでにそれ以前からそういう話はあり、すでに工事もやっているのですが、なにぶんガキなので知るはずもない)、筑肥線が直流電化して、通勤電車が走るという話を聞き。
「ワタシは予言者ではないのか!?」などと、勝手にwktkしていた時期もありました。
しかし予言は半分外れ、
「ここに」
と思っていた西新付近は、廃止されてしまいましたが(笑
そんな頃の熱い思いを、今日、たまたま所有していた鉄道模型を片付けていたら、思い出しました。

キハ35と103系1500番台。まさに、筑肥線の新旧世代交代。
約35年前のワタシよ、見ているかい。
君の将来は、おおむね希望通りになっているぞ(笑
しかしその後、103系1500番台は、思いっきり真っ赤に塗られてしまったんだけども。
歴史を紐解く必要もありませんが、簡単に解説すると。
かつて博多駅から西へ分岐し、福岡市の西南部を走り、現在の筑肥線の起点となっている姪浜まで走っていた旧筑肥線は、昭和58年の福岡市地下鉄1号線(現空港線)全通とともに、その使命を終え、廃止となりました。
「地下鉄との並行路線だから」というのが廃止理由ではあるのですが、直線距離で2km以上も離れている場所があるなど、(廃止理由が)沿線住民には納得のしづらい部分もあったようです。
しかしながら、「筑肥線の踏切交差部分が、慢性的な渋滞の原因になっている」と言われれば反論もできず、かといって全線高架あるいは地下化するほどの需要も当時はなく、結果的に目立った反対運動もなく、廃止となりました。
さて国鉄筑肥線は廃止後、徐々に道路となってゆき、「筑肥新道」なる名称も新たにつけられました。鳥飼駅(現城南区役所)~西新駅近辺は廃止前からあった道路と並行しているため、事情を知らない人にとっては延々と並行する道路があるという不思議な空間となっています。
で、旧西新駅の現在。
現在の保育園~スーパー~ファミマあたりが、旧西新駅の場所ではないかと記憶しております。
「自宅最寄り駅」といっても、単純にワタシの自宅から最も近いだけであって、実際に歩くと1時間はかかります。かくのごとく距離があり、かつこの駅を使っても行けるのは博多駅くらいですので、筑肥線を利用して出かけたという記憶はありません。
ただ、鉄道に興味を持ち始めていた頃だったので、列車や鉄道施設を眺めに行ったり、切符の購入などをしに行っていました。当時(昭和56年頃)はどの駅にも出札窓口があって、中には硬券切符がずらりと並び、駅員に目的地あるいは金額を伝えて購入していました。国鉄職員というと無愛想いやむしろ態度が悪い、などとマスコミでは叩かれ始めていましたが、別にそのような事もなかったと覚えています。
西新駅は比較的利用客が多かったのか、大人に加え小児運賃用の切符も販売していて、切符の券面の中心に赤字で「小」と書かれた姿が印象的でした。
(さきほど、「切符を買った」と書いていますが、改めて保有している切符を探しても「西新駅」のものは出てきませんでした。とりあえず参考として「小」マークつきの伊万里駅切符を出しておきます)

鉄道ファンになる条件としては、子供の頃、比較的多く列車に乗る生活を送っていたとか、生活圏において毎日のように列車と接していた、あるいはインパクトのある車両と出会った、などというのが挙げられますが、ワタシの場合どれも当てはまりません。
先述の通り、自宅と駅はかなり離れているので、車両の姿も何も見えません。せいぜい、冬などの空気が澄んでいる時期に、西新駅を出発するディーゼルカーのタイフォンの音が、毎朝の登校中に聞こえるかどうか、といった程度です。
それでも何故か鉄道趣味に陥り、「せっかくだから」と思って訪れた西新駅。
学校が終わってからなので、行くのはいつも夕方でした。
当時はまだ国道263号線だった「早良街道」との踏切から、西の方を眺めると、夕日の中に、西新駅の島式ホーム、ホームに建つ屋根、そしてその奥に植えられた木がシルエットで見え、さらにスプリングポイント標識が放つ幻想的な紫色の光、その近くにある腕木式信号機の赤い光が見えていました。
飽きずにずっと眺めていると、やがて踏切が鳴り、クリーム+ベージュというツートンカラー塗装のキハ35系がのっそりと現れ、やがて目の前を走り去っていきます。
そんな光景を、日が暮れるまでずっと眺めていました。
締めは、DE10牽引による客車列車で、それが西に走り去ると、いよいよ周囲は暗くなっていきます。
「いつかここに、東京で走っているような直流電車が現れて、颯爽と走り去るようになるんだ!」
ガキなワタシは根拠もなくそう思っていました。
直流電車(機関車)は、何も知らない九州の片田舎にいた少年にとっては、大都会を示す憧れの車両。
当時流行ってた、ブルートレインブームの影響が尾を引いていたのかもしれません。
いわく、
田舎=赤い車両(ED72とかED76、421系、キハ類)
都会=青い車両(EF65-1000、113系など)
そんな都会を夢見る田舎者のワタシだったわけです(笑)。
つまり、憧れだけで、筑肥線に「直流の青い電車が走るのだ」と信じていたのでした。
小学生だから、仕方ないですね。
ところが、(実はすでにそれ以前からそういう話はあり、すでに工事もやっているのですが、なにぶんガキなので知るはずもない)、筑肥線が直流電化して、通勤電車が走るという話を聞き。
「ワタシは予言者ではないのか!?」などと、勝手にwktkしていた時期もありました。
しかし予言は半分外れ、
「ここに」
と思っていた西新付近は、廃止されてしまいましたが(笑
そんな頃の熱い思いを、今日、たまたま所有していた鉄道模型を片付けていたら、思い出しました。

キハ35と103系1500番台。まさに、筑肥線の新旧世代交代。
約35年前のワタシよ、見ているかい。
君の将来は、おおむね希望通りになっているぞ(笑
しかしその後、103系1500番台は、思いっきり真っ赤に塗られてしまったんだけども。
2015年01月13日
TRの宿に行ってきました
延岡から高千穂までを結んでいた高千穂鉄道が、台風の影響で廃止になって、今年で10年を迎えます。
地元宮崎を走る、唯一の第三セクター鉄道であったという思い入れはもちろんのことではありますが、それに加え、この鉄道を愛し、遠く福岡から足繁く通っていた友人である猿渡氏が、2013年に若くして鬼籍に入るという出来事もあって、いつかは趣味仲間と訪れたい場所、それが、(旧)日之影温泉駅に併設された、「TRの宿」です。

日之影温泉駅の、以前ホームのあった部分に、高千穂鉄道を走っていた「TR100」が2両設置されているさまは、少し不思議なものがあります。
車両近辺には、かつてホームに設置していた「出発反応標識」(場内信号の「進行現示」に対応してランプが光るホーム上の信号)が、半ば朽ち果てた状態で存在している以外は、これという鉄道遺物が眺められるわけではありません。が、よくよく観察してみると、旧ホーム部分にある蛍光灯などは、昔のままのようにも思えます。
車体はそれぞれ2つに分割され、4人部屋・2人部屋・1人部屋があります。

こちらは1人部屋(シングル)。気軽に宿泊できますが、この部屋では運転台がなく、「列車に宿泊している!」という実感が薄いかもしれません。
2人・4人部屋は運転台があり、現役当時のままの雰囲気が楽しめます。

もちろん、運賃箱などもそのままです。貫通扉のあった場所は洗面台となっていて、さらにその左隣、いわゆる助手席側はトイレとなっています。外部から見えないように、窓は白いシートで覆われています。なお、その「トイレ部分」にある、かつての乗降ドアはそのままですが、やはり窓の部分はシートで覆われています。構造的に薄い部分なので、冬はそれなりに寒いです。
室内には必要十分な空調設備がありますので、それを稼働させれば、快適に過ごすことができます。

恐らく圧巻なのは4人部屋でしょう。ここには2段ベッドが2セットと、簡易的なソファが設置されています。グループで宿泊すれば、話が盛り上がること請け合いです。できれば、旧TR100の座席のままだったらいいのになぁ、などと思いますが、それはさすがに無理でしょうね。サイズ的にも。
さて、この「TRの宿」ですが、基本は簡易宿舎です。浴衣や洗面道具はありません。お風呂は隣の日之影温泉を利用します。かつて全国に多く存在したユースホステルのような雰囲気です。致せり尽くせりのシティホテル・旅館に慣れている人には素っ気ないサービスに感じますが、しかし宿泊と割り切れば必要十分です。唯一難があるとすれば、給食施設が少ないため、夕食は隣の日之影温泉駅のレストランで摂ることが可能ですが、閉店以降はコンビニなどはなく、そうなるとアルコール類もなく、翌朝は自分で朝食を準備しておかないといけない、という点でしょうか。
ですので、宿泊日に、それなりの準備をしておく必要があります。
といっても、クルマで30分も走れば(!)、コンビニはありますけど。
以前宿泊した「ブルートレインたらぎ」に比べ、車両や周辺施設としての魅力は若干劣りますが、「レールバスに泊まる」なんて絶対体験できないものですよ。皆様もぜひ、訪れてみてください!
地元宮崎を走る、唯一の第三セクター鉄道であったという思い入れはもちろんのことではありますが、それに加え、この鉄道を愛し、遠く福岡から足繁く通っていた友人である猿渡氏が、2013年に若くして鬼籍に入るという出来事もあって、いつかは趣味仲間と訪れたい場所、それが、(旧)日之影温泉駅に併設された、「TRの宿」です。
車両近辺には、かつてホームに設置していた「出発反応標識」(場内信号の「進行現示」に対応してランプが光るホーム上の信号)が、半ば朽ち果てた状態で存在している以外は、これという鉄道遺物が眺められるわけではありません。が、よくよく観察してみると、旧ホーム部分にある蛍光灯などは、昔のままのようにも思えます。
車体はそれぞれ2つに分割され、4人部屋・2人部屋・1人部屋があります。
2人・4人部屋は運転台があり、現役当時のままの雰囲気が楽しめます。
室内には必要十分な空調設備がありますので、それを稼働させれば、快適に過ごすことができます。
さて、この「TRの宿」ですが、基本は簡易宿舎です。浴衣や洗面道具はありません。お風呂は隣の日之影温泉を利用します。かつて全国に多く存在したユースホステルのような雰囲気です。致せり尽くせりのシティホテル・旅館に慣れている人には素っ気ないサービスに感じますが、しかし宿泊と割り切れば必要十分です。唯一難があるとすれば、給食施設が少ないため、夕食は隣の日之影温泉駅のレストランで摂ることが可能ですが、閉店以降はコンビニなどはなく、そうなるとアルコール類もなく、翌朝は自分で朝食を準備しておかないといけない、という点でしょうか。
ですので、宿泊日に、それなりの準備をしておく必要があります。
といっても、クルマで30分も走れば(!)、コンビニはありますけど。
以前宿泊した「ブルートレインたらぎ」に比べ、車両や周辺施設としての魅力は若干劣りますが、「レールバスに泊まる」なんて絶対体験できないものですよ。皆様もぜひ、訪れてみてください!