› かるブロ › 2013年01月23日

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Posted by みやchan運営事務局 at

2013年01月23日

真幸駅

宮崎で一番最初に開業した駅は?
そう言われると、当然県庁所在地の「宮崎駅」の名前が出ると思うが(ただし非鉄道好き)、宮崎駅は1913(大正2)年。それより以前に開業したのが、これから紹介する真幸駅。1911(明治44)年の開業である。

本題に入る前に、その真幸駅の位置を確認していただければと思う。

すんげー山奥にあるのだ。
「なぜそんな山奥に宮崎第一号が?」と、訝しがるかもしれないが(ただし非鉄道好き)、わずかに見える鉄道路線を見ればなんとなく分かると思う。博多(福岡)から順調に南下していた鹿児島本線が、ただたまたま、宮崎を「通過」したのにすぎないのだ。もし、宮崎の県境がもう少し東であれば、真幸駅は「宮崎第一号」ではなく、地味な他県の駅であったはずだ。

今でこそ鹿児島本線は、海岸沿いを走っている(ただしこれは新幹線開業と同時に第三セクターの「肥薩おれんじ鉄道」に転換された)。
しかし、明治政府は、それ以前に体験した欧米列強による艦砲射撃を極端に恐れており、その影響が少ない山地への鉄道建設を要請した。ただ、この人吉~吉松ルートは、あながちそれだけを避けるためでなく、最短距離で鹿児島へ抜けられるという意味もあったようだ。現在の高速道路がほぼ同じルートを辿っていることからもわかると思う。

そのような経緯があって、真幸駅は明治44年に開業したものの、その歴史は決して華やかなものではない。
無理をして通した山岳ルートゆえに、特に貨物列車が非常に難渋し、交通の隘路となっていた。
人吉~吉松の間に、スイッチバック2箇所、ループ1箇所を擁するその姿が、何より現実を語っていると思う。
それ故、大量の貨物を捌けず、結果的に数本に分けて運転したり、機関車を複数つなげて運転するなどの苦闘を強いられる。
そして1927(昭和2)年に現在の海沿いルートが開通すると、主役はとって代わられ、「鹿児島本線」という名前も奪われ、「肥薩線」というローカル線へ転落する。
転落後も不運が重なる。
終戦後の1945(昭和20)年には、復員兵を載せた列車が立ち往生し、煙に巻かれた人々が、外へ脱出するために線路を歩いていたところ、列車がバックしたために多数の犠牲者が出てしまう事故が発生。
さらに1972(昭和47)年には山崩れが発生して駅を壊滅状態にさせてしまう。後に復旧したが、このときの岩が今でもホームに置かれて、その惨状を後世に伝えている。

しかし、もともと乗客がきわめて少ない、という条件は、ある意味良かったのかもしれない。遠距離の直通客さえなくなれば、地元の利用客は少なく、それが故にいろいろな意味で、手を加えられることがなかった。つまり明治後期の姿をずっと留めることができたのである。


真幸駅外観。古く低めの木造駅舎、そして右側につながる屋根の雰囲気が、まさしく明治時代の「急行停車駅」の様相を呈している。ごめん上手く説明できない(笑


正面から。


かつて蒸気機関車が運転されていた頃の本線は、このような作りであったらしい。確かに今SLが走ってきても違和感なく感じる(だけ)。

ただ、クルマで来ると、

いかにも観光地してます、というこの看板が正直興ざめな感じがする。しかも数箇所あり、こればっかりは真幸駅の姿にそぐわないと思うのはワタシだけだろうか。……ワタシだけなのかもしれない(笑

駅周囲には集落がない。
昔の写真などを見ると、駅近辺に官舎らしきもの、そして駅前に集落があるのだが、この集落は先述の山崩れの際に移転してしまったらしく、消えてなくなっている。
また、真幸駅の裏付近には小学校跡もある。内堅小学校といい、廃校になって久しかったが、今ではギャラリーになっているらしい。以前、まだ無人だった頃訪れたときには、建物が妙に新しかったので勿体無いと思ったが、良かった。

まだ書き足りないが、近いうち追加して記したいと思う。  

Posted by かるみっこ at 00:03Comments(2)鉄道